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文法-抑揚


 ふつう言語学で「抑揚」といえばイントネーションのこと、たとえば疑問文ではおしまいを上がり調子に言うといったようなものです。ところが漢文法の「抑揚」というのはまるきり違います。「小さな子供でさえできるのだから、まして大人はなおさらできるはずだ」というふうに、小さいもの・弱いもの・制限されたものの例をあげて、一般的・平均的・普遍的に通用するのだという論法のことを言います。本来いいたいことである後半を言うのに、あえて最初に小さいものの例を挙げてトーンを抑えておく、というところから「抑揚」というのでしょう。
 音読の場合は抑揚特有の副詞や接続詞の意味に注意すれば特に問題はないのですが、訓読の場合は変わった送り仮名が必要になるので注意が必要です。

  1. 抑揚
    1.臣死且不避、巵酒安足辭
     chén sǐ qiě bú bì, zhījiǔ ān zú cí
     臣(しん)死すら且つ避けず、巵酒(ししゆ)安くんぞ辭するに足らんや
     [訳]私は死でさえ避けることはありませんのに、一斗(約1.9リットル)の酒などどうして遠慮することなどございましょうか
    2.死馬且買之、況生者乎
     sǐmǎ qiě mǎi zhī, kuàng shēng zhě hū
     死馬すら且つ之を買ふ、況んや生ける者をや
     [訳]死んだ馬でさえ買ったのだから、まして生きた馬ならなおさらです(高価に買わないことがありましょうか)
    3.庸人尚羞之、況於將相乎
     yōngrén shāng xiū zhī, kuàng yú jiàng xiàng hū
     庸人すら尚ほ之を羞[は]づ、況んや將相に於てをや
     [訳]普通の人でさえこれを恥じるのだから、まして将軍・宰相ならばなおさらです(どうして恥じないでいられましょうか)

     上述のように抑揚とは「小さな子供でさえできるのだから、まして大人はなおさらできるはずだ」という論法なので、前半(小さな子供でさえできる)と後半(まして大人はなおさらだ)の二部構成になります。
     前半は普通の文でもかまわないのですが、多くの場合には「且 qiě」「尚 shāng」「猶 yóu」などの副詞を用います。これらはみな譲歩の意味を表すので、「~でさえも」と訳します。
     上で、後半は「まして大人はなおさらだ」と書きましたが、実は反語文であり、「まして大人はどうしてできないだろうか」という内容の文が来るのです。上例1のように実際に反語文が用いられることもあります。その場合には反語の訳し方にしたがって普通に訳せばOKです。
     しかし現実に登場する抑揚表現のほとんどは、後半は反語文の体をなしておらず、非常に省略された形になっています。すなわち、単に末尾に「乎」を用いるのみです。上例2はそういう形です。
     このとき注意しなければならないのは何が省略されているかです。普通ならば単に直前の語句つまり「買之」を補えばいいと考えがちですが、それでは「まして生きた馬は買うだろうか、いや買わない」というわけでまるきり逆になってしまいます。実は後半は、前半の否定の反語になるのです。つまり、
    況生者不買之乎 kuàng shēngzhě bù mǎi zhī hū
     況んや生ける者は之を買はざらんや
     [訳]ましてや生きた馬は買わないことがあろうか
    の省略になっているというわけです。実際には抑揚表現の後半を見たらあまり難しく考えずになんでも「なおさらだ」と訳すと覚えてしまうのが早いのかもしれませんが、なぜ「乎」がついただけなのに「なおさらだ」という意味になるのかを理屈で説明するとこういうことになるわけです。
     「況」の変種としては「矧 shěn」もあります。見慣れない字ですが、実はこちらのほうが「ましてや」の意味を表現する本来の字であり、「況」のほうが当て字であり、後には「況」のほうが一般的になったという経緯があります。なお、「況」のさんずいをにすいに変えた「况」という字体もあります。
     また上例3のように、「況」と前置詞「於(=于・乎)」が併用されたり、「況復」「況乃」などのように他の副詞と併用したり、「而況」などのように接続詞「而」と併用したりすることがあります。ちょうど仮定の助字(→文法-仮定)や限定の文末助字(→文法-限定・累加)が複数組み合わさるようなものです。

     訓読の場合は細かな約束事がいろいろあります。
     まず前半の主語のあとには必ず「すら」という送り仮名を送ります。たとえ前半に「且・尚・猶」などの副詞がなくても「すら」を送らねばなりません。
     後半は、上例1のように反語文になっていれば反語文(→文法-疑問・反語)の読み方どおりです。反語文でない場合は、末尾を必ず「をや」と読みます。このとき後半の末尾に「乎」字があれば、その直前に「を」と送り、「乎」字を「や」と読むというふうに処理しますが、「乎」字がない場合は「をや」をすべて送り仮名にしなければなりません。
     上述の「況於」「況復」「而況」などの組み合わせは、それぞれの文字を別個に読みます。この点、仮定の助字や限定の文末助字の組み合わせをまとめて「もし」だの「のみ」だのと読めばよかったのとは異なります。「況於~」は「況んや~に於いて」、「況復」は「況や復た」、「而況」は「而[しか]るを況んや」です。「而」を「しかるを」と読むのが抑揚独特です。